特別支援学校の知的障害のある児童生徒について、特に必要があるときは、各教科、特別の教科である道徳、外国語活動、特別活動及び自立活動の全部又は一部について、合わせて授業を行うことができる。
みたいなことが学校教育法施行規則に書かれています。
肢体不自由の特別支援学校の場合は、状況に応じた対応は常に必要とされているので、国語算数みたいな授業のなかでも自立活動の観点がはいってきます。
知的障害の特別支援学校の場合は、肢体不自由の学校よりも国語算数などの教科をしっかりやらなければ的な雰囲気が強くて、実態の幅も広いので、まとめるのが難しくなると感じます。(なので、グループに分けていることが、よくある)
「各教科等を合わせた指導」を実施する枠として、「日常生活の指導」「遊びの指導」「生活単元学習」「作業学習」があります。日常生活の指導は摂食や衣服の着脱など、やること(看板)がはっきりしているので、集団をみながら個に応じた指導を盛り込んでいくことは比較的容易だと思います。ところが、遊びの指導や生活単元学習は看板を教員が企画しなければならないので、経験や専門性、指導方法の蓄積があるとなしでは大きく違います。
【ところが】
研究授業や、どこかに発表する授業を実施するときに出される学習指導案を作成するとき、授業目標がその授業のウラにある学習指導要領と合っていないと、たちまち指摘の嵐が吹きます。
何年も学校にいて、毎年研究授業を見ていますが、指導案作りが難しくなっていると思います。その授業の根拠と、それに特化した目標設定、指導内容、個に応じた手だてや配慮など、深く突き詰めて、理解できていないと書けないものになってきています。
乱暴な言い方ですが、その授業で代々やっていたものを、少し改善して出せば成り立っていたものが、通らなくなってきたと感じられるのです。緻密さが求められ、根拠の提示があり、内容はアカデミックで観点を細かく盛り込んだものが増えましたが、やってみてどうだろう?できるかな?どう思う?みたいな答えがでるかどうか分からないことが避けられるようになった気がします。(これも対話的だと思うのですが…)
経験や知識が浅い段階では、まずは授業の大枠ができれば良い、教科の枠(合わせない)にとらわれ過ぎないでできる授業をやって、そこに深さや緻密さを年々求めていく形がいいのではと思うようになりました。
【イヤでしょ…?】
分からないこと、頭に入ってこないことを取り扱う授業になると、途端にやる気がなくなる、逃げたくなる、拒否したくなる、なんてことは多くの人が経験したことと思います。特別支援学校にいる児童生徒も同じです。
それでも、授業だからやります、ここまで到達させたい、スモールステップで小さな一歩から、踏み出してもらいます、そんなタスクを遂行させることに虚しくなることがあります。まずは対話(自立活動)できること、教科のエッセンスを残しつつの遊びの指導や目標を盛り込んでもいいのではないか、と思います。
時間の枠で「合わせた指導」を確保するだけでなく、自立活動は学校生活全体で行うものとありますし、国語や算数(数学)、図工(実術)、体育等のなかに、教科を越えた指導目標を付け足すことで、様々な個性をもつ子どもが活躍できる、もてる能力を発揮することができる授業ができるのに。
昨日、若手の先生の話を聞いていて、そんなことを思いました。