学校の文化 担任の先生より OT・PT・ST

425)特別支援学校 子どもの指導のために必要なことは「なぜ?」か「何?」か

先日、コーチングに関する本を読んでいて、「なぜという言葉には相手の責任を追及する響きがある」、「なに?」を使えば、客観的に問題をとらえることが可能になる、という文をみて、「そうなんだー」と思いました。

【リハの実習の「なぜ」】
リハビリテーション技士(理学療法士、作業療法士)の学生さんが臨床実習に出た時、指導者であるバイザーに口頭で患者さんについて口頭で、またはレポートなど書面で自分が見たものを説明(言語化)します。
そのとき、バイザーは書いてあるものに対して「これは、こんなふうに書いてあるけど、なんで?」などと聞き、学生さんが「〇〇と〇〇です」と答えると、更に「なんで?」「あとは?」と更に聞いていきます。

このような問答について、学生さんを追い詰める心理的な圧迫だ、パワハラだとして見直されましたが「未熟な自分の視野を広げてくれるものだった。」、「患者さんのことをよく知ることを促すものだ。」と肯定的な意見もあるのも事実です。

【教職員のOJTはどうなっているか】
学校では、「まずやってみよう」、から始まって、研究授業や日々の授業のなかで「何が良かった、どうすれば良くなる」などと言われます。その他、日々の子どもの様子を見て指導していくなかで経験を伴う知識が付け加えられていく、という感じでしょうか。

様々な子どもの課題や、職場で求められるものは増える一方ですが、「何をする」、「誰がする」が主で、やっていることの意味や妥当性を問う「なぜ」について、あまり聞かれません。

それは、教員養成でも、校内研修でも心身の機能・構造について基礎からみっちりやることがなく、担任などをしてかかわった子どもから得た知識を個々に断片的にもっているため、共通理解を図ることが難しく、そのために「なぜ」があまり使われないんだと思います。

では、心理的圧迫を伴わない「何」がいいのかといえば、そうでもないと思います。

とりあえず、なんとなく授業や指導をしているのではなく、何を根拠に、何を狙って、何をしている、それだけでも段階付けとして向上しているといえます。

しかし、その先生がもっている知識と観点だけですべてを語れるかといえば、そうでないケースもあると思います。「見て、やってみてそうだと思った」、「以前みた子どもに、こういう子がいて、この方法でうまくいった」という先生が結構いて、頑なになると、その観点から離れることができません。

まず、「なぜなんでしょうね。」、「この理由が分からないので、いくつか仮説をたててみました。確かめてもらえませんか?」などと言って、自発的に「なぜ」がでてくる働きかけが必要だと思います。

https://magomago1.org/424goingoutwithmedicalcare202106/
前回は「424)特別支援学校 医療的ケアを受けている児童生徒のおでかけ(例)」でした。