百聞は一見に如かず
机上で学んだこと、えらい人から聞いたテクニック。
それよりも自分でやってみて、何が違うんだ、どうすればいいんだ、ともがいて得たものがあると、柔軟に目の前の課題に向き合えるようになります。
Aの答えはB
これが公式のように決まったものであるなら、回り道は無駄です。
しかし、学校では様々な個性をもつ子どもたちが在籍しています。
以前やって、うまくいったものが通用するか試してみよう。
駄目なら、繰り返して身に付くかやってみよう。
少し段階付けをして取り組んでみよう。
複数の課題を求めすぎるのかもしてないので、少し観点を絞ってみよう。
遊びながら、少しずつ試してみたらどうだろう。
時間を短縮して、集中してできるかやってみよう。
目標が高すぎるのかも、他の目標に切りかえよう。
など。
これらは、いろいろな試行錯誤と失敗と成功を経て得たものです。
おそらく、どこかの本を見れば書かれているものばかりだと思います。
経験を経て得た物と、そうでないものの違いは何だろう…?と考えてみて、浮かんだのは
取捨選択する切りかえのよさ、1つのことに執着しない柔軟性、いつまで・どれだけやるか見定める判断力、ではないかと思うのです。
経験を伴わない、頭でっかちさんは、口ではいろいろ言うけれど、対応が柔軟でなく、思い通りにいかないとイライラするようになり、的外れな結論に固執することが多いように感じます。私もそんなときが全くないとは言えませんが、切りかえられるようになったのは経験の為せる技でしょうか。
【どちらの価値観で乗り切るか】
リハビリテーション技士から教員になった頃は、学校で行われる指導は根拠がなく、パターナリズムが多いので効果が薄いと本気で考えていました。そのため、学校の中にとけ込むこと、理解することに拒否的でした。
ある時、子どもが落ち着かなくなり、場が混乱してきたときがあり、なんとかしなきゃと思っていると、一緒にいた先生が、あっという間にその場をおさめてしまいました。
このとき、集団の指導を学ばなければ、自分のもっているものを本当の意味で活かすことはできない、自分はあくまで教員としてここにいるので、学校という環境を理解することから逃げてはいけないと思うようになりました。
それも担任になろうとおもった理由の一つです。
しかし、学校で行われている指導技術が常に場に応じたカードという訳でもなく、同じく子どもが落ち着かなくなったとき、一緒にいた先生は、あらゆる手を使って対応しようとしましたが通用せず。冷静に環境と子どもの特性をふまえて評価して行動すると、うまく教室がまとまりました。
学校の指導技術のカードをたくさんもつと集団、個別にかかわらず便利。
リハの評価と治療技術はキレがよく、指導一つひとつを強くします。
以前のように、学校教育と医療の優劣をはかったり、比較したりすることは随分少なくなりました
かわりに、どちらの良さも使いこなせるマルチプレーヤーになること、マルチプレーヤーを増やすことが大事だと思うようになりました。
https://magomago1.org/425usingwhyandwhat202106/
前回は「425)特別支援学校 子どもの指導のために必要なことは「なぜ?」か「何?」か」でした。